大人になってしまった

 そういえば、もうまともに他人とコミュニケーションをとらなくなってから、ずいぶん経つな、なんて事に気付いたのはごくごく最近の話だ。ちょうどベッドに就く頃で、人気の無い天井を眺めながら忘れ物を思い出したかのようにその事実に気付いた。特段その事に対して思い入れ等は無い、というそのこと自体が、傍から見たら異常に見えるのかもしれない。ことこういった物事に対しては、僕は何が常識で、何が非常識なのか全く分からないのだけれども。
 端的に言って、疲れてしまったのかもしれない。コミュニティに参入して、自己の存在を認知させ、コミットする、という事の繰り返しに。どんなコミュニティも変遷して、変わらないものなんて無いって事は、ある程度経験を重ねていった大人なら腑に落ちる話なんじゃないかなと思うんだけど、年を重ねるにつれて、新しいコミュニティにコミットしていく事に億劫になっている自分に気付く。壊れやすい人間関係をメンテナンスする事にそれほど魅力を感じない。
 人間は社会的動物らしいが、どんどん自分から社会性というものが欠落していくのを鑑みても、果たして自分は本当に社会的動物なのだろうかという事に疑問を感じてしまう。否、という答えを求めているわけではないのだけれど。寂しさ、寂寥感というのは自分の中にあったのかもしれない。でも、欠落した生活を続けるにつれて、寂しくない、温かい生活というものに対する想像力を無くしてしまっている自分がいる。想像できないのであれば、それが実在するものだとしても、想像出来ない人にとっては、恐らく「無い」事と同義だと思う。
 その精神的土壌の貧困さに同情を寄せられる事がもしかしたらあるかもしれない(恐らく無いだろうけど)が、僕にとっては全くもって日々が幸福に満ちあふれているとまでは言わないまでも、それなりに平穏な日々を過ごしているので、そういった視線はまったくもって理解のしがたいものなんだろう、きっと。
 気にかかる事は恐らく生涯パートナーと呼べる人は現れないだろうから、その分寿命が縮むことぐらいだけど、それ以外にはそれほど不安とかの感情は無かったりする。僕は結構悲観主義者なので、僕自身はともかく、未来は今日より禄でも無いものになってるはずだという考えだ。なので実際禄でも無いものだったとしても、ああ、やっぱりねという考えに至るだろうし、仮に思ったりよかったとしても、それはそれで儲けものだ、と思うに違いない。
 こんな考えを、19歳の僕に聞かせたら、どう思うだろうか、そんな事をふと、考えた。多分彼は、こんなにも僕が何も得ていない事、何者にもなれていないことに絶望するかもしれない。僕はあまりにも多くの事を諦めてしまっているかもしれない。そしてこんなにも多くの事を諦めているのに、平然として生きていられる。あるとき、何の気兼ねも無く諦められる自分に気付いたとき、こう思ったんだ。ああ、大人になってしまったと。