物語と旅について

物語の型について最近ずっと考え続けている。物語というのは媒体も数も呆れるほどにあって、それについて一人の人間が把握する事なんてとうの昔に不可能となっているのだけれど、それでも守られ続けている法則として、穴の概念というものある。

物語のお約束として、物語の主人公は例外なく穴に落ちる。穴に落ち、そこから這い出すか、それとも這い出さないのか、その結末は物語によって様々ではあるけれど、穴がそこにあり、その穴に落ち、這い出ようとする、という点においては共通している。その事に気づかされて以来、物語を見る度に穴の存在について、偏執的に思考をめぐらしていた。それは言い方を変えれば、日常と、非日常の境目を行き来する、その行為が何故に自分の興味を引き立てているのかについての追求とも言える。行って、帰る、という言葉にしてみれば極めて簡素なこの行為が、どうして僕の心をこうも揺さぶるのだろうかという疑問が、ふとした瞬間に幾度となく生まれ出ては、消えていった。

読書は、旅なのかもしれない。

こうした構造について考えていると、そうして、物語の世界に没入し、物語を読み終え、そして日常に戻るという一連の行為もまた、行って、帰るという物語の基本に沿った行為なのであるという、今更言うまでもない当たり前の事実に思い至った。それはある種の旅と行っても良いものかもしれない。旅。非日常との邂逅は自分の根っこをハンマーで思い切り殴打するような衝撃的経験といった意味合いにおいて言うのであれば、それは比喩としてそれほど不適切ではないように思える。旅を求める人と、物語を求める人は、確かにそう考えれば似ているのかもしれない。地に根ざした全うな日常を毛嫌いしているようなある種の人間にとっては、どちらもユートピアに見えるのかもしれない。もちろん、救われぬディストピアを物語が語ることすらあれど、隣の芝は青くみえる。遠くほど景色がぼやけて、実情は見えなくなる。

遠い外国のお話が、昔から好きだった。昔はグリム童話をよく読んでいた気がする。現実の匂いがしない物語に引きつけられ続けてきた。どこかの言葉も、習慣も、風俗もしらないような世界で繰り広げられるドラマにわくわくさせられ続けてきた。無論それはこれからも続くのだろう。昔、岡崎京子の「リバーズ・エッジ」を前知識無しに一気読みしたことがあった。あの世界の、どこを切り出しても砂を噛むようなのっぺりとして何も無い世界感に本気で狂いそうになった。世界から物語を全て追い出したらあんな感じになるのだろうか。あんなのはごめんだ。碌でもない世界と言われることが多いけれど、唯一救いがあるとするならば、それは物語がある事なんだろうなと思う。

たぶん僕にとっての現実というのは、何の変化もないどこまで行っても平坦な舗装路のような風に認識されており、だから故にあぜ道や、山道のようなものに心惹かれているのではないのかななんて事を考えた。自分にとって周りの事象が素晴らしいものに見えて仕方がない、とても幸福な人々にとっては、砂漠を放浪して水を探すような切実なものではないのだろうけれど、見えないものに追い詰められて、為す術も無く、無様に這いずり回るような人間にとっては、ささやかながらもそれが救いになるんじゃないだろうか。逃避という言葉でもって嘲笑を浴びせることは実にたやすいし、実際それ以外の何者でもないのだけれど、逃げる場所すら見えないような狭い世界なんて、あまりに惨い話なのではないかと思うのだ。もっと世界は広大で、自由で、見晴らしがよくたって、バチは当たらないはずなのだから。