信頼すること、疑うこと。

何にしろ、何かを信じるってことは、煎じ詰めると疑うことを放棄すると云うことになる。だから信じるって事は、裏切られるリスクを承知の上で、そのリスクが最小限になるように行動するのが合理的という話になる。例えば裏切った場合相手が被る害の方が多かったりする場合はかなり安心して信頼できるわけだ。外交や政治などはこういう計算に基づいて行動しないと泣きを見る。論理的に疑いようのない場合とか、例えば数学の定理などは厳格な証明によって疑いようのないものとなっている。

でも世の中そんな簡単に裏切らないかを計算したり、証明できる事柄ばかりではない。この理屈でいくと世の中の全てを疑ってかかれば裏切られる可能性は最小化できるが、そのようなことを逐一やっていてはは自分の体力が保たない。かくして思考の限界を超えた対象や、裏切られてもさほど影響のないものに対して人は根拠もなく疑うことをを放棄する。

逆に自分(もしくは自分たち)の利害に密接に絡む事に関しては厳格な検証をすることが多い。例えば自分の会社の商談だとか、恋人が浮気していないかだとか、政治で不正を行っていないかだとか。中にはこういう時ですらも疑念を抱くことを放棄して泣きを見る人もいる。逆に、こと人に関する過剰な疑いが、その人との関係に支障をきたすことがある。

先の定義を逆に捉えれば、疑われるということは信頼されていない事を意味する訳だから、疑念を突きつけられた人物が不愉快な気分になるのも無理はない。しかし普通はその人物が法に悖るような事や、裏切りを匂わす証拠を残しでもしないかぎりそのような疑いを受けることは稀な訳だから、そのような場合を除けば疑う人物が対象に裏切られる事を恐れてそのような行動に出ると考えるのが自然である。時に恐怖は人を突拍子も無い行動へ煽動するものだから。

とはいえそのような行動は慎みたいものである。大切だと思う人を疑うことで縛り付けるような真似をすればそれこそ、彼、もしくは彼女との関係の破綻ということになりかねない。かといって信じていても時には無情に裏切られる。僕が常々思うのは人の心ほど読めないものはないということだ。名声や権力、金や愛情が絡めば人はどのような行動に出るか予想が付かない。裏切りという行為は倫理的にも間違いとされる事が多いが、そういった聖俗併せ持ってこそ人間であるのだから、裏切った人を責めるのも酷だろう。そういうわけで、疑念を捨て去ることも、放棄する事もできない僕は祈るのだ。ひたすらに。どうか、誰も僕を裏切りませんようにと。