書き続けること

継続しているといえるほどに何かを書き続けたわけではないけれども、人並み以上に文章を書くのが好きなのは恐らく、書くことでしか自己を表現出来ないというある種の思いこみというか、諦めに近い何かが僕を規定しているような気がしてならない。
小さい頃から空想癖の激しく、一人で箸にも棒にもかからぬつまらない事をよく考えるのが好きだった。おしゃべり大好きというよりは他の子の話を聞いては、ただひたすら屈託無く笑う事の多い子供だったと自覚している。また、一人っ子というのもあるのかもしれない。
自分の意見を口に出して言うという習慣を持ち合わせていなかったし、そんなことをしなくても特に不自由することなく暮らしていけた。まあそういうわけで面と向かって誰かに何かを語ることを磨くことなく、ここまで生きてきた反動なのかもしれない。

「なぜチラシの裏に書かずにウェブに公開するのか、日記にでも書き散らせばいいのに、キモイ」など言われればと言われれば全くもってその通りだが、それでも恥ずかしいなと思いつつも何で公開しているかと言えば、前述のように僕は現実世界に於いてそのような自分の思いを語れる技術も場も持ち合わせていないというのもあるし、それでも誰かに話を聞いてもらいたくてたまらない時があるからだ。
僕がウェブ上に書き綴る言葉はとてもとても小さな声だから、多少気恥ずかしさを感じる文章も気兼ねなく公開できるというのもある。俺の書いた記事凄いだろ!と自信満々に書くというよりは、何か書きたくて書きたくて、そういう鬱屈した思いの丈を吐き出す、排泄する作業と言った方がしっくりくる。このブログのプロフィールに公開チラシの裏と断り書きを入れているのもそういった点が多少なりとも関与しているのが本当のところだ。
それに特定の誰かに語りかけるよりも不特定多数に語りかける方がはるかに楽に感じる。特定の誰かと対話するとき、僕はどうも過剰に空気を読みすぎて本来自分が言いたかった言葉より、相手が聞きたいと思っているであろう言葉を察して発言することのほうが多い。それは確かに僕の言葉だけれども、同時に僕の言葉とは相異なるものだ。不特定多数の人に語りかけるなら、僕の言葉は空気から自由になる。
僕の書いた文章は稚拙で未熟だけど、それでも誰かの救いになればと思って書いている。僕もそうやって癒されて、励まされて、様々な事を学んできたから。逆に誰かを傷つけるかもしれない。でも傷つける事を恐れていては何も書けなくなるので、僕は見知らぬ誰かに酷いことをしているのかもしれないと自覚しつつも、物を書き続けるのだ。

そうすることでしか生きている実感を得ることが出来ない、と言うといささか誇張が過ぎるけれど、僕にとって書き続けるというのはそういうことなのだ。