三年前の自分に、ありがとう。

PCに溜まっていたテキストの整理を行っていたら、ふと三年前に自分が書いたものを発見した。
懐かしい気分になった。そういえば、三年前の自分は今からは考えられないほどの後ろ向きな考え方だった、全てにおいて。

あの頃は何もかも嫌になっていた。自暴自棄だった。もう僕は何も持っていないのだと嘆き、もう決して何も手にすることは無いのだと絶望した。希望からは最も遠い存在に思えた。望んではいけないのだ。そう、思いこもうとした。

何でも中途半端だね。

この言葉ほど僕を縛り付けていた言葉はあるまい。何かをやろうとするとき、いつもこの言葉を意識していた。中途半端は悪なのだ。途中で投げ出す事は、負けに等しかった。どれだけ心が嫌だと言っていても僕は素直に耳を傾けようとはしなかった。そして耐えきれずに逃げ出した。ああ、今回も中途半端だったな、そう呟きながら。そんな経験を重ねていくうちに、僕は何も成し遂げられないのではないかという不安は、確信へと変貌を遂げていった。

思えば死についてばかり考えていたような気がする。それは今思い返してもぞっとするような体験で、明らかに自分が精神的におかしいと無意識的に自覚していたのだけど、自分のちっぽけな見栄がそれを認識することを拒絶した。まだ僕は自分を見失ってないと。現実について考える事はとても恐ろしく、未来は灰色で、のっぺりとしたものにしか見えなかった。誰も僕自身に価値を見いだすことはないのだ。たとえ僕が他人に価値を見出される事があったとしても、それは仮初めに過ぎない。それは僕の中に内包された種々の属性に価値を見出したのであって、僕自身、僕そのものが大切にされることなど、永久にあり得ないのだ。*1誰も僕に価値を見出さないのであれば、何故生き存える必要があろうか。世界は僕を必要としないのだ。そうして僕は延々と自分の死の不可避性について考え続けていた。

もう精神的に限界に来ていたのだと思う。感情が制御できなかった。心が悲鳴を上げていた。これは自分の問題だからと、決して自分の気持ちを他人に打ち明けようとはしなかった。他人に縋るのを拒否した。否定されるのが怖かったのかもしれない。死ぬだの寂しいだの言って構って欲しいだけの痛い子だと思われるのが心底嫌だったのだろう。こういうところに、僕の歪んだ自尊心が見え隠れする。もっと素直だったらここまで拗らせることは無かっただろうに。

転機はある日突然訪れた。あれは暑い夏の日のことだった。僕はいつものように起きて普段通りの生活をしていた。ただ、ひとつだけいつもとは違うことを考えていた。

たとえ世界が僕を必要としていなくとも、僕自身が僕を必要としている。どんなに僕が無価値であろうと僕自身は決して僕を見捨てはしない。

まるで自分の前に漂っていた靄が晴れたようだった。なぜこのような事を考えるに至ったのか、自分のことにも関わらず今でも解せない。しかしこう考えるようになってから、自分の死について考えることは無くなった。こうして僕は自己承認することによって、思春期を精算した。相変わらず世界は残酷で容赦ない一面を見せるけど、一方で暖かく優しい事が少しずつであるけれども、分かってきた。こうした暖かさを感じることが出来るのは、あの日があったからに他ならない。

三年前の自分へ。僕は相変わらず生きてます。相変わらずうじうじして、状況はそれほど変わりませんが、概ねハッピーといえそうです。ありがとう、それじゃ。

*1:この考えを未だに引きずっている節がある。