Twitter雑感

Twitterにアカウントを登録して半年以上経つ。放置していた期間が結構長いので、実質三、四ヶ月程だろうか。主にラップトップのTwitで更新を眺めることが多く、出先ではMovatwitterからちょくちょく独り言を呟いたりといった具合だ。始めた当初はfollowerが一桁で特に知人を招待するでもなく日々の行動などを呟いていた。ちょっと積極的に活用しようかな、と一念発起したのが数ヶ月前で、普段読んでいるブログの人とかを積極的にFollowingするようになってから、俄然面白くなってきた。


ブロガーにとってTwitterは楽屋のようなもので、その人のブログを読むだけでは分からない文脈のようなものが、Twitterを経由することで浮き出ることもある。140字という文字制限が功を奏したのか、普段垣間見ることのできない、凝縮された生の思考の断片が次々と生み出されていく。そうして生まれた思考の断片がパッケージング化される形でブログの記事になっているのを見ると、今まで静的なモノとして捉えていたエントリーが、思考のダイナミズムの結晶として生み出されていたのかと、以前とは違う目線で眺めることが多くなった。Twitter上で生まれる生の言葉の断片達は溌剌とした生命力に満ちていて、下手にそれをエントリ化するよりも面白かったりすることもある。


百人いれば百人分のTwitterの使い方がある。Think logとして使う人もいれば、Life logとして使う人もいる。チャットツールとして使う人もいる。ネトゲのチャットというのは絶妙な例えで、緩く繋がっている感覚は、ネトゲのそれと非常に似ている。開始当初はそれほどでも無かったものの、Followingが3桁を超えると、さながら街中の喧騒だ。ある人が考え事を呟く傍らで、他の人がたわいもないお喋りをしている。駄洒落好きなオジサンの隣で、哲学について熱弁を振るう人もいたり、不思議な空間だ。カオスといってもいい。

いつもではなく、ふとまれにだが、そう言った雑踏の中にいると、得も言われぬ疎外感を味わう事がある。次々と飛び交う"@"。場の盛り上がりとは対照的に、どんよりとした目で眺める自分。楽しそうに話している人達を、片隅からじっと眺めている。そういう時、僕は何も言わず、静かにその場から抜け出す。その場から抜け出すことは簡単。Twitを閉じるだけだ。そうして雑音が聞こえなくなったとしても、一度狂った平衡感覚を修正するのは至難の業で、なかなか元には戻らない。皮肉なもので、そういう繋がりの中に身を委ねている時より、こうした書き物をしている時の方が孤独であるにも関わらず、精神的に健常な状態だったりすることの方が多い。

このような体験は一度限りのものじゃなく、それなりの頻度で訪れる。それにもめげず、相も変わらずTwitterを続けているのは、一癖も二癖もある個性的な人達があつまるTwitterという場に、どうしようもなく惹かれてしまっているからなのだろう、電灯に惹かれる虫の如く。恐らくこれからもくだらない独り言を垂れ流していくのだろう。そんなつまらぬ独り言でも、誰かの為になるかもしれない。そんな事を思いながら、明日もTwitterで呟くのです。