ハロー・グッバイ

僕は比較的余計な事を覚えていて、大切なことを忘れている場合が多い。中でも僕の物忘れの酷さはそれこそ一級品と呼ぶに相応しく、例えば外に出るとき、バイクに乗るというのに肝心のキーを持ってくるのを忘れたり、二、三個程頼み事を言付かったら、一つしか片付けておらず、残りのものが頭の中からきれいさっぱり消えてたりという具合に、つい先ほど言われた事すら、すぐに忘れてしまうこともある有様だ。

こういう性分だから昔の出来事もすぐ失念してしまうかというと、やはり大抵の事は忘れてしまっているのだが、全部忘れてしまっているかというとそうでも無い。意外に覚えているものだ。とりわけ、その時強い感情を抱いてた出来事は早々忘れることはない。そうして残った、少ないながらも強烈な過去の記憶を一つ、また一つと僕は積み重ねていく。僕の記憶の中に保持されている過去の出来事を、時折自分という映写機を用いて何度となく上映する。普段は気に留めないけど、時たま何かが足りないな、欠けているな、と感じるものがある。

簡潔に言えばそれは感情なのだろう。自分の追憶の中におけるその時、その一瞬に抱いていた感覚が何という状態であったのかを思い出すのは容易だ。それに名前を与えてやることもできる。あの時僕は怒っていた、憎んでいた、喜んでいた、悲しんでいた、幸福感に酔いしれていた、絶望に打ちひしがれていた、希望を見いだしていた、といった風に。でもそれはカメラ越しに自分の過去を覗き見るようなもので、カメラの向こうにいる昔日の自分は、まるで他人のような存在なのだ。彼が何を感じていたかを察することはできれど、彼の感じ取っていたこと、それを追体験することは、もはや叶わぬ夢。その感情がどのような感覚であったかを思い出すことはできない。その感情に言葉を当てはめる事はできる。でもそれは過ぎし日に感じたものと完全にイコールである事はない。いくら言葉を重ねようと、その激情が再び蘇って乗り移る事はない。感情はその時、その瞬間一回限りのもので、決して長持ちすることはない。どんなに強い想いを抱いていようと、いつかその想いは消えて無くなってしまう。

この一回性が良い方向に働くこともある。人は過去に生きられない。怒りに震えたり、悲しみに打ちひしがれるような事があっても、時間が経てばいつかは風化していく。そうして人は傷ついたり、嫌なことがあろうと、立ち直り、再び歩き始めるのだろう。僕も、そうしてきた。でも時々、その失ってしまった感性を恋しく思うこともある。あの日感じた開放感。見知らぬものに対する、新鮮な驚き。不意に貰った、かけがえの無い言葉、それに対する感謝。暖かな励ましへの涙。どんな素晴らしいことであろうと、絶え間なくやってくる時間の波に押し流されていく。それらをたとえ言葉に綴っても、感覚は二度と戻ってこない。

この時間の波があるからこそ、前を向いて生きられるのかな、とも思ったりする。好むか好まざるかに関わらず、僕はサヨナラをしなくてはならない。どんな事にも別れはいつか必ず訪れるし、それ自体をどうこう言ったところで仕方がない。そうして歩き続けるうちにふと思い出すことがある、過去のその瞬間に「何か」を感じていたことを。僕はそれを忘れない為に書き続けているのかもしれない。当然だが、良いことばかりではない。そのなかに醜いものも含まれている。清濁含めて、僕がその時感じていたものは、僕にとっての宝物。たとえあの感情が生き返る事がなかろうと、あの時、僕が感じた何かは間違いなく存在したんだ。それを確認するために書き綴っている。日々を過ごすたびに得てきた、宝石やがらくたを後生大事に抱え込んでは、僕はこれからも歩き続けていくのだろう。

僕が密かに恐れているのはそうした感性が働くことなく、一日、また一日と過ぎ去っていく事だ。感情という旅人は、不意に僕を訪れ、僕としばらくの時間を過ごした後、またどこかへ行ってしまう。旅人と過ごし、散々な目に遭った日には旅人なんて来なければいいのにと愚痴ることもあるけれど、いざ旅人が全く訪れない日々が訪れると、なんだか自分がとてもちっぽけなものに思えるようになる。無味無臭な出来事の中で自己の感情が削ぎ落とされる毎日というのは、とてもつらいものだ。新たな知識に驚きを覚えたり、たわいもないことで楽しみを感じたり、できればそういう何かを、感じ取る日々であって欲しい。

いろんな出来事があって、いろんな事を感じた。そして感じたことは次々と過ぎ去っていく。明日は嬉しいことがある日かもしれない。もしくは、辛いことがある日かもしれない。でも僕は明日を受け入れようと思うのだ。たとえ、それがどんなものであったとしても、僕はまだ見ぬ何かに、飛び切りの笑顔で迎えたい。そしてこう言うのだ、こんにちはと。