ネットが逆立ちしても、本に勝てない理由

はじめに

最近、ちょっと情報の摂取を控えようかなと考えている。というのも、何というかあんまり意味が無いような気がするのだ。本を読んだ方が頭に残り易い。それに無駄に時間が吸い取られるし。これはどういうわけなのだろうか、と最近ちょっと考えてみた。

忘れ去られやすいWeb

本って、考えて見ると自由度に制限のある媒体なのにも関わらず、何故だか情報の質が高いように思える。決してWeb上にある知識が粗悪で質の悪いものばかり、というわけでは無い。むしろある部分においてはWebの方が陵駕している部分も多々あるのだと思う。それにも関わらず何故だかWebの情報というのは、頭にスッと入るのはいいのだけど、そのまますっと出ていくような印象がある。例えばの話だけど、せいぜい古くても2、3年程前の情報にも関わらず、Web上の情報で驚くほど忘れ去っているものと言うのは、案外多い。初期の頃のブクマを整理していると、こんなのいつ読んだのだろうか、なんて情報はざらにある。おそらくこの情報を読んだ当時には、これはブクマすべき、なんて考える程度には関心しただろうし、一定以上のアテンションをその記事に関して差し向けたはずなのにも関わらず、ほとんど記憶に無いなんてよくある。酷いときには本当に忘れてしまっている。ちなみに僕はよくされる「あとでよむ」形でのブクマはしない主義だから、過去にブクマしたものは必ず一度は通読しているにも関わらず、だ。これはおかしい。記憶力の悪さには、まあ確かに覚えが無いわけではない。それでも、大体2、3年前に仕事でどんな事をしていたか、軽く話をしてみろと言われたら、大方であれば話せる。昔読んだ本の内容を答えろと聞かれたら、書評を書けるレベルまではいかないまでも、軽く感想を述べるくらいまではいける。なのにも関わらず、ことWeb上の情報に関しては、個々の記事に関して記憶を持っているのは、本当に数える程しかない。他の方も言及されているが、僕が日常的に見てるはてな界隈の記事は、世間一般の知的水準よりは上だと言われている。読むに耐えない記事はそもそもブクマしないだろうし。主観的に見ても、個々の記事は僕のような市井の人*1が考え付けるような水準を遥かに越えているし、悪評もあるが、もしその記事に構造的な欠陥があれば、何らかの形で検証され、淘汰される生態系を保持しているWeb上にて、一定以上のアテンションを稼ぐWeb上のコンテンツは、それなりの質を保っていると考えていいはずなのに。

コインの裏表

往々にして物事や概念は多面的な側面を保つ。コインの裏表みたいに。あるいは、万華鏡のように。本にあって、Webに無い物は物理的な制約である、と考えるのが妥当だと思う。これを逆転的に考えてみると、制約とは、抽象化であり、それはおそらく上位構造、言い換えればメタ構造の構築なんだろうと考えられる。ちょっと言葉にしてみると考えにくいけど、実例を挙げると、多分わかりやすいと思う。わかりやすい例が多分最近の自己啓発関係の本とか。あれはとても見やすいし、構造もしっかりしてる。メタ構造にあたる部分が見出しで、各章は、大体4、5ページ、長くても10ページ位。どこかのライフハックス系のブログのエントリと、質は大差ないと思う。二つの中身はほとんど大差が無いにも関わらず、なんで一方は受け入れやすく、もう一方は忘れ去られやすいのだろうか。多分構造の有無なんだろうと思う。Web上のコンテンツって、何だかエントリ単位でWebを彷徨っているようなイメージがある。属人性とか、個々人の文脈は視野から外れがち。そのblogのカテゴリの中の一記事、といったという意識で読んでる人は多分少ないと思う。極端な話をしてみれば、Lifehacking.jpの人に編集を一人つけて、過去ログを一つの本にすれば売れる。文章をほとんど加筆とか、訂正とかはする必要は多分必要ない。おそらく質に関しては書籍にするからと言って格別手を加える必要は無いんだと思う。そこらの新書を手に取れば分かると思うけど、Webよりぬるい文章はざらにある。ただ、本にはWebにはなれないけど、今のWebには無い特性を持っている。

ネットにある上位構造

Webにも上位構造が無い、というわけでは無い。例えば検索エンジンなんかその最たるものだし、blogや、はてブWiki、あらゆるWeb上に散らばるデータはメタデータを持っている。あるいは、こう言った方がわかりやすいかもしれない。メタデータを持たないデータは、Webから駆逐される。でも、この構造は所詮人が作った物では無いので、なかなかWebは勝てない。おそらく捨象が足りないんだと思う。人間の認知能力には限界があるから、一つの概念に関する構造は、できるだけ入れ子構造を取ってやらないといけない。選択肢は適度に少ない方が理解の助けになる。人間は3の3乗は認知できるけど、27は認知できないようになっているから、階層化できるならできるだけ階層化してあげるのが正しい。そういう意味で、Twitterとかは情報の摂取媒体としては最悪だし、ROMる時間があるのであれば本読んでる方がいい。*2RSSリーダーは使いようによっては、今の旬を読み分ける事ができる。例えば、僕のGoogleリーダーの話だけど、例えば新聞とか、Yahooのトップに乗ったトピックにある関心のあるキーワードをGoogleリーダー検索に打ち込めば、大抵は質の高い情報が帰ってくる。Wikipediaは情報は凄いけど、リンクがあるだけで、上位構造は保持していない。辛うじてカテゴリとかある程度。

時間はいらない

構造化された知識に、おそらく一番必要の無い物は、時間だと思う。何かの概念の元にまとめ上げる場合、時間は邪魔なものになる。昔は、検索ではいわゆる昔ながらの「ホームページ」が上位に来ていた亊が多かったように思える。blogは時間を意識せざるを得ない構造だけど、ホームページの場合、そういうのを意識させない作りの方が多い。また、ブクマを整理しながら思った亊なんだけど、どんなブクマサービスも、大抵はトップページとか見ると、一番新しいものから時系列に無差別に羅列されている。大抵の人は、ここで見る気を無くす。タグが付与されていなかったら絶望的。おそらく見ても。最初のトップページの3、4アイテムだけ覗いて、それで終わりにされる。タグを付与していてもせいぜい1タグ、2タグがいい所。これはぬるいと思う。たとえ1タグで絞り込んでも数百のアイテムが出てきた時点で萎える。理想としては、絞り込んで10アイテムに収まる程度にタグは打っておいた方が、再利用性は高まる。でもそれをしてる人って本当に少ない。多分大抵の人はWebにとっては「今」を見る為だけに使っている人があたりまえなのだろうと思う。それ以外は検索エンジンで、といった感じ。一つの概念に基づいた莫大な量の知というのは、ほとんど無いんじゃないだろうか。

情報を最大限に効果的に吸収できるようにするためには、そこにある情報の、時系列という枠を外した後に新たな概念の元に再構築してあげる必要がある。情報が普遍性を獲得するのは、おそらく時間や、時代性といったもの、限りなく「今」というものを削ぎ落としてやる必要がある。「今」が無いと情報が生み出されないのだろうけど、そう考えると二律背反的な作業なのかもしれない。でもこういうものに成功した情報は、長い時間を生き残る事ができると思う。例えば、僕が今パッと思いつくのは、数学の定理とか。次点としていわゆる古典や、教養と言われる類のもの。前提知識として何らかの時間に結びついた知識が必要な情報は、いつか陳腐化する。

オールフォーワン・ワンフォーオール

一つの上位構造を持つことで、おそらくミクロとマクロの両面から、それはある種の好循環を生み出す。ミクロ単位で単位で見ると、それは多分二重の意味を持つようになる。文章そのものの面白さと、構造の中で果たす役割との二足草鞋を履くような形になる。サッカー・チームにおけるチームと個人の役割みたいな感じ。統一したチーム戦略や、ビジョンの中でしかエースは輝けない。端的なのがオシムが率いた90年のユーゴチーム。ミクロを重視しすぎた当時のマスコミが望む編成でユーゴは敗北を記した。どんなプレイヤーでも関係性の中で輝きを放つ。調和の取れた構造を物ものは相互補強しあって、単体では敵わない強度を持つようになる。これは多分、物語にも言えることだと思う。小説なんかその最たるものなんだと思うけど、文体や、あるシーンを描くことに天才的な人もいるけど、それだけじゃ強度が、多分弱いんだと思う。物語という統一された構造の中に配置されることによって、それは活性化されるし、意味を付与される。多分、その好例が村上春樹だと思う。あの人は個々の文章を書くことにかけては神懸ってるけど、多分物語を描く亊は苦手な人なんだと思う。だからこそあの人が書いたスプートニクの恋人は、物語を描ききった亊で、前世紀の村上春樹の総決算と言っても差し支えの無い、素晴らしい出来に仕上がっている。当然、マクロだけよければいいって物じゃない。そのコンテンツが注目を浴びるには、個々の場面に切り取っても人を惹きつける力が必要。どっちが重要かという話じゃない。これはバランスの話。全体の構造の中で果たす役割を考えながら、自分の持ってる能力を個々に注ぎ込む。イタリアンの料理で、お客さんの反応見ながら、次の皿を準備するのを調整したり、前菜に合うメインディッシュを勧めたりとか、そういうおもてなしとか心配りみたいなもの。

おわりに

ただの刹那的な消費で終わるか、それか、長く通読できる普遍性を獲得出来るかは、上部構造の保持、それにかかっていると言い切って良いんじゃないかって思う。Webが次のステージに進むとしたら、多分そこら辺がキーになるかなと思う。個々の漂流している情報を、あるワンワードどまとめ上げる、それを助けてくれるようなサービスが欲しい。昔、MDにお気に入りの曲をかき集めて、好きな人に渡すような、そんなイメージ。そんな物が、できてきたら、もっと幸せになるような、そんな気がして。

*1:copyright by 朝日新聞

*2:あくまでもコミュニケーションツールとして見なさない場合の話。なんというか本末転倒な見方ではある