祈り

「ねえ、神様が私たちを作って、そして私たちを好きでいるなら、どうして神様は私たちが病気になるのをほうっておくの?」
娘が尋ねてきた。5歳になる私の娘は、このままいけば確実に学者になりそうだ。好奇心を全方位的に向けられると、それに答える方に、ときに、圧倒的知性を要求されることがある。私は、そこがまた、可愛いのだけれど、と付け加える事を決して忘れなかった。大きく見開いた蒼い目が男を見つめ込む。どうやら知らないふりを決め込むわけにもいかないらしい。私は観念して、この厄介な要求を片付ける亊にした。妻に話を振るという選択肢も考えたが、朝の妻は頗る機嫌が悪いことが多いので、後々の報復が怖い。とりあえず、被試験体を観察するような、科学者の片鱗を見せつつある娘の目を、じっと見つめかえすと、私は笑顔で彼女にこう言った。
「よし、家に帰ったら話そうか」
「ねえ、どうして今じゃないの?」
手厳しい。
「ユーリ、ユーリは面白い亊は最初にする方、それとも後にする方かな」
「最初かなあ」
「そうか、パパは面白い亊は最後にする方なんだ」
「うん」
「だから、家に帰ってこの話はしよう。楽しみにしておきなさい」
ユーリは頷くと、今度は道端の草花に興味を持ち始めたと思ったが、どうやらそうもいかないらしい。脱兎のごとく駆け出して家へ向かっていった。なんと言ってもここは家から大人の足でも2、3分の所なのだ。咄嗟の取り繕いでああは言ったものの、大した時間稼ぎはできそうにないようだ。男は娘が途中転けないかとハラハラしながら見つめていたが、その心配はなさそうだった。ユーリは家に無事にたどり着き、まるで主人の帰還を心待ちにしている忠犬のようにこちらを見つめている。そして、大声で早くと急かされてはどうしようもない。我が麗しの姫君がお呼びとあらば、馳せ参じないわけにはいくまい。私は姫君の元へと駆け出した。

まだ妻は寝ているようだった。折角の休日なので、そのまま寝かせておく亊にして、とりあえずパンをトースターにセットすると、二人分のミルクを用意する亊にした。朝食を摂る前に、お話するようにしよう。何しろユーリときたら、さっきからリビングにある椅子に座り込んでは、さっきから私の一挙一動を逐一逃さぬように観察している。私は目を合わさぬようにするだけで精一杯だった。視線が痛い。私は痺れを切らすギリギリまで待たせて、ようやく娘の隣にある椅子へと座った。待たせたね、っと労うように言うと、何も言わないが物欲しそうな目で私の亊を見つめている。頼むから私以外にそんな目をしないでくれよ、なんて思いつつも、話を切り出すことにした。
「どうして神様は放っておくの、って話だったね。これに関しては、ちょっと難しい。こういう事をいうと、ビックリするかもしれないけど、神様は放っておくことがとっても多い」
「神様は意地悪なの?」
「そうじゃない。ただ、何でも助けてあげるのも問題だ。そうだな、ユーリ、君は最近自分で靴紐を結べるようになっただろ?」
「うん!私それだけじゃないわ!自転車も乗れるようになったの!」
「それは凄いなユーリ。今度見せてくれよ」
「うん!」
娘の笑顔が輝く。太陽みたいな笑顔だ。
「でだ、もし、靴紐を全部神様が結んでくれたらどうする?自分で結びたくても、全部結ばせてくれずに、ずっと神様が靴紐を結ぶのを手伝ってくれるとしたら?」
ちょっと考え込んだ娘はこう言った。
「それはちょっと、嫌」
「どうして?」
「だって私、自分で結びたいの。靴紐を結ぶのってとっても面白いのに、どうして神様に助けてもらわないといけないの?」
「そうだろう。だから神様は助けてくれないんだ」
「でも、病気は苦しいわ。病気は神様は助けてくれないの?病気を治すのは面白く無いわ」
「そうだな、それはたぶん・・・」
やはり手厳しい。まるで被告人を追求する検事みたいな目でユーリは私の亊を見つめている。私はしばらくの思索の後にこう答えた。
「たしかに病気は苦しい。それでも神様は助けてくれないんだ。どうしてだと思う?」
ちょっと考えたあとに、こう返された。
「きっと寝てるのよ。お母さんみたいに」
寝相の悪い神様の亊を想像すると、確かに可笑しい。私は笑ってこう答えた。
「それは面白い答えだ。でも残念ながら、そうじゃないんだ。神様はサボっている訳じゃない。ちゃんと考えた上でのことなんだよ。神様は敢えて、助けようとしないんだ」
「神様は酷い人なの?」
失望したような声。
「そうじゃない。でも神様はちゃんと見てるよ。神様は僕達人間からみたら、時にとても酷い仕打ちをすることがある。でも、決して意地悪でやってる訳じゃないんだ。どちらかというと、その逆だ。神様は僕達を試しているんだ。」
「試す?」
「そう、試す。試練と言い換えてもいいかもしれない。病気ももちろん、試練の一つだよ。こうして僕達に試練を与えることで、その試練を乗り越えたとき、僕達がもっと、強くなれますようにって」
「でも、それでも病気で死ぬ人はいるよ?」
「そうだね。でも決して神様は悪戯にそんな仕打ちはしない。たとえ神様が与えた試練を乗り越えられなくても、その人がそうやって試練を克服しようとしたこと、ちゃんと神様は見てるよ、神様は決して見捨てない」
「だから、いつも辛いときはこう祈るんだ。神様、どうかこの困難を乗りきれる力をって。そうしたら、神様は必ずみてくれる。パパがお前の亊をいつも見ているようにね。分かったかな?」
ユーリはグミと間違えてゴムを飲み込んでしまったような、釈然としない表情を浮かべている。無理も無い。自分でも分かっていないようなものだから。私はそう考えると、先ほど入れたトーストが、何やら焦げ臭い匂いを放っているのに気づいた。慌ててトースターの前に駆けつけたが、もう遅かったようだ。すっかり丸焦げになっている。とりあえず皿に載せ、リビングにあるテーブルの上に載せると、ユーリが鋭い抗議の目線を私に送ってきた。誰に似たのか、空腹のユーリは手が付けられない。私はユーリに向かって申し訳なさげに話しかけた。
「さあ、早速だけど、祈ろうか」