仮面男

その男は気がつくと、仮面を被っていた。なぜ被っていたか、それはわからぬ。気がつけば仮面はただそこにある物であったし、それを被ることは息をする様に自然な事だった。彼が仮面を被っていることを周りの者に問いただされる様なことはなかった。誰も彼の素顔を見たことはなかったが、誰もその事を気遣う事はなかった。

仮面を被り何をするのかと思えば、彼はいつも劇を披露していた。どうやら即興劇のようである。周りの反応に合わせて、反応を変える。それはさながらジャズの演奏のようであった。

また彼は幾つもの仮面を持ち歩いていた。はじめ、彼が持ち歩く仮面は少なかったが、少しずつ増やすことで今では数多くの仮面を持ち歩くようになったのだ。時たま彼は家に籠もり、仮面を自分で作り出す。しばしば彼は他人が演じている劇に感動した。自分も、かの様な劇がやりたいと思うがすぐ、発作的な衝動に駆られ彼は徐に仮面を作り出すのだ。そうして一つ、又一つと彼の仮面は増えていった。

周りの人たちの前で、彼らの望む仮面を被り、彼らが望む劇を演じた。本当に周りの人たちがそれ望んでいたかは分からぬ。ただ彼がその演目を演ずる度、周りの人たちは彼に喝采を浴びせた。ただ彼はそれが嬉しくて、来る日も来る日も、同じ演目を演じ続けた。演じるそのものが喜びとなることも多かった。やりきったという充実感に酔いしれる日もあれば、仮面を被っていることすらも忘れ、無我夢中に演じる事に没頭した日もあった。

周りの人が移ろう度に、彼が被る仮面は変わった。誰に対しても同じ仮面を被るわけではないのだ。また仮面によって披露する劇も異なる。ある時は喜劇、ある時は悲劇といった具合だ。時には作ったばかりの仮面を被り、拙い出し物を披露し寒い目線を浴びたこともある。しかし何度も繰り返すうちにコツのようなものを掴んでいった。動き、返しが精錬され、そしていくつもの演目をこなせるようになった。

長い間被らぬうちに、気づけば何処かへ消え去ってしまった仮面もあった。無くしてしまった仮面を再び被りたい、そう思い仮面を作り直した事もあった。そうして作り直した仮面は確かに前に被ったものに確かによく似ている。しかしそれは似ている別の何かであった。

たとえ疲れる事があろうと彼は劇を演じ続けた。正直気の乗らない演目もあったが、周りの期待には応えなければならぬという責任感に駆られていた。ある時一度、周りの人の前でいつもとは違う仮面を被り、いつもとは異なる演目をお披露目した事があった。何故かそのとき、無性にその演目をやりたくなったのだ。上手く演じきる自信があった。そして彼は実際上手く演じきったのだ。だが、周りの者の反応は芳しくない。みなどうしたのか、いつもの演目はやらぬのかと聞いてくる。まるで今演じた演目は無かった事のようにされているかのようだ。彼は何故自分が先ほど演じた演目について皆何も言わないのか、不思議に思った。楽観的な彼は誰かがいつかその事について気に掛けてくれるだろうと思った。だが遂に彼にその演目について何か一言でも言う者は現れなかった。彼は何とも言い難い諦念を抱き、以降彼は突拍子もなく演目を変えるような真似は決してしなくなった。

彼に好意を寄せる者が現れた。それを彼は嬉しいと感じる反面、果たして本当に自分を愛しているのか訝しんだ。たまたま気まぐれで付けた仮面で演目をお披露目したら、いたく気に入られて、好意を寄せられるまで至ったのだ、無理もない。彼は彼女の前では仮面を脱いでいないのだ。彼女が魅せられたのはあくまでも演目。彼女は自分ではなく仮面に恋しているのかもしれぬ。そう考えると彼は気が滅入った。

しかし彼女を手放すのは怖かった。彼女の笑顔にどれだけ助けられたことか。たとえそれが自分に向けられたものでなかったとしても、それを無下にできるほど強くはなかった。偶然とはいえ得難き宝石が手中にある。どうして手放せようか。一度魅せられてしまったが最後、自分の手から離れてしまわぬようあらゆる手立てを企てるのは自然の流れだった。

前の失敗もある。否定されたらと思うと、怖くてとてもじゃないが自分の好きな仮面で演目を披露しようとは思わなかった。そうして彼は彼女の望む演目を演じ続けた。彼女は彼に夢中だ。違う。やりたいのはこんな事じゃない。騙しているような感覚が彼を支配していた。劇を演じ終えるたび、燃え尽きるような疲労感に襲われた。何もやる気が起きなかった。

どうすれば良いのか。彼は仮面を外す事を考えた。しかし彼は仮面を外すことはなかった。素顔でどう過ごせというのだ。仮面無しでの生活など考えられなかった。仮面は決して自分そのものではない。だが仮面無しで自分を表現する事など端から無理な話なのだ。

耐えきれなくなって彼は別れを告げた。彼女はなぜなのと問いただした。あまりに残酷な問いかけだった。彼は答えられなかった。

彼はそしてまた独りになった。今日も彼は仮面をかぶり、演じ続ける。彼は周りの望む演目は披露しなくなった。彼は自分の好きな仮面を被り、自分の大好きな演目を演じるようになった。周りの望む演目を披露していたあの頃とは違って、彼の演目が大勢の喝采を浴びることは少なくなったが、彼は満足していた。

しかしまた誰かを好きになったとしても、その人の前で、彼女の望む演目を演じる誘惑に耐えられるだろうか。そこで彼は考えるのを止めた。