であることと、でありたいこと

アイデンティティなんていらない。 - Something Orange
ほぼ全面的に同意なんだけど。

アイデンティティなんて、床の間に飾ってあるトロフィーのようなもので、過去に自分が獲得したものや、手に入れたものが何であるかを確認する手段でしかない。そう僕は思っている。時折それをみては誇らしげな気持ちになったり、人に見せつけて悦に至ったりするのに用いられるくらいで、実はそれほど有用性なんてないんじゃないかと考えることもある。昔は一流のメジャーリーガーだったのに、引退したとたんに落ちぶれて、挙げ句の果てにホームレスになった人。彼は酒浸りになりながらも、昔の栄光を忘れられずにいるらしい。忘れてしまいそうな大昔に獲得したトロフィーを磨くことばかりに懸命で、現実から目を背ける人。手に入れたトロフィーを手放すまいと必死な人。アイデンティティは時に麻薬のように、現実から逃避するため格好の材料となる。

また、アイデンティティとは換言すると一種のラベリングであって、ラベリングとは差異化の手段だ。本来区分の為に用いられるものだけど、そこに優越感、劣等感といった触媒を加えることで、とてつもなく醜悪な形に歪むこともある。例を挙げるまでもないだろう。そんなものそこら中に転がっている。

上記のように考えれば、自分が何者であるかなんて考えない方が楽だろう。「僕は僕だ。」これで十分じゃないか。シンプル・イズ・ベストだ。ややこしい事なんてもうお腹いっぱい。そう考えるのが自然かもしれない。

でもそれだと、例えばいくら僕が年をとり、いろんなものを知ったり、新たに何かを獲得したとしても、「僕は僕だ」で片付けられる。それの方がシンプルで良いのかもしれない。でも、僕は言いようのない物悲しさを感じる。

アイデンティティという言葉を強引に言い換えると「自分が何者か」ということなんだと僕は思うのだけれど、その未来形は何か、それについて思いを巡らせたら、「自分が何者でありたいか」がいちばんしっくりくるんじゃないかとの結論に至った。無論、その「ありたい姿」に誰でもなれるわけない。もしなれたらみんな億万長者だったりして、何かと都合が悪い。死に物狂いに力を尽くしたって、そのありたい姿には必ずしもなれる訳じゃない。でも、「自分が何者でありたいか、何者であり続けたい」について考えて、それに近づけるようにいろいろ工夫を凝らしたり、試したり、努力してみたりすることは意外に楽しい行為だったりする。そうして試したのち、いくつかの「ありたい自分」は「である自分」になることもあるだろう。

ありったけのリソースを費やして、「ありたい自分」に近づくよう、日々を過ごす。そしてある日ふと気づくのだ。遠い昔に夢想した、「ありたい自分」になっている事に。その瞬間は感慨も一塩だ。はっきり言ってたまらない。

ある言葉の現在形が無くなるということは、当然だが未来形も無くなるということだ。僕はそれが無性に悲しい。僕は自分が獲得してきたトロフィーに執着するつもりは毛頭無いのだけれど、目指すべき未来の指針ともいうべきものを無くした僕は、どうすれば良いのだろうか。恐らく途方に暮れるだろう。ある日突然遊び道具を奪われた、無邪気な子供のように。

未来の自分がどうありたいか、そういう事を考えない人にとって、アイデンティティなんて邪魔なものなのかもなとは思う。アイデンティティがある種の暴力性を秘めているというのは疑いようの無いことだ思うし、「ただの言葉」に過ぎないこともわかってるつもりだ。それでも僕がそれを捨てきれないのは、「ただの言葉」の為に全精力を費やす行為の没頭感、高揚感、そういった快楽を知ってしまったからだろうとおもう。

追記:
こういう「でありたい自分になるゲーム」は、参加したい奴だけ参加すればいいと思うし、このゲームに参加する事を強要すべきでないし、してはならないと思っている。参加しても勝てる勝算は必ずしも無いのだし、無理にリスク背負って破産しました、じゃ洒落にならない。僕はこのゲームで常勝できるなんて自惚れてはいないけど、それでも参加した方が面白いと思うからやってる。