思考の外化は、セーブに似てる

私たちは基本的に忘れやすい生き物だ。たとえ新しい事を学んだとしても、反復的に学習を繰り返さぬ限り、得た知識は指の間からこぼれ落ちる砂のように、サラサラと抜け落ちていく。思考も然り。執拗に考え込んで、長時間考え続けた末の成果も、何らかの形で外に還元しない限り、それはどこかへ消えてしまう。

書くことは自分のその時、その瞬間の思考をフリージングしてパッケージングする行為に似ている。思考というのは不可逆的な性質を持つ。その時その時によって自己が持つ文脈はどこかで似ているが全く同じということはあり得ない。個人の文脈から自由な思考などあり得ないのであって、万物は流転する故に、過去の思考と寸分違い無い思考展開することは原理的に不可能だ。けれども書くことによってそのとき、その瞬間の思索は可視化される。もちろん完全な形ではない。変換、というよりそれはむしろ翻訳といった方がいいのかもしれない。何にせよそれは不完全な形で表出する。

言語というのは不完全であるからして思考を完璧にトレースすることはできないけど、一度書かれた思考の翻訳とでもいうべきモノは、自己から切り離される。つまり、不可逆性を失う。物理的な損傷を受けない限り、劣化しないのだ。それはアナログデータをCDに書き込むことでデジタル化する行為に通じるものがある。デジタルデータはアナログデータの完全なコピーたり得ないが、半永久的に劣化しない。

一度生まれた思考の断片を触媒とすることで、完全な形では無いものの、過去の自分から、思考のバトンタッチをする事が可能になる。
一度セーブしたゲームデータをプレイするようなものだ。これはブログに限った話ではないけど、ブログによる学習の利点の一つにこれを挙げてもいいんじゃないかと思う。

この触媒の面白い点は、何も自分が必ずしもゲームの続きをプレイする必要が無いという点だ。それが読めれば、原則的に誰でもそのゲームへの参加権を与えられる。全く異なる文脈を内包する人がその断片にアクセスすることで、翻訳者の想像も付かないようなモノが生み出される事がある。それはまさに、ケミストリーであり、僕はウェブの醍醐味はそこにあると感じている。

我々が文明の果実にありつけるのも、極言すればこれのおかげである。今現在私たちが目にしている現代という時代は、古の時代より綿々と受け継がれてきた、思考の断片をバトンパスする、聖火リレーの成果によるところも多い。

クリアまでに長時間かかるようなRPGを、セーブもせずにやり続けるような人は滅多にいない。思考というゲームにクリアなんて概念はないし、ましてやレベルなんてものも無い。道を追い求めるならば、歩み続けなければならない。しかし深みを追い求める為には、時には途中休むことが必要だ。僕はブログを書き続ける。ある時は、誰かが道案内してくれる事を期待して。そしてまたある時は、一時の安息を得る為に。また歩み続ける為に。