中和剤

http://d.hatena.ne.jp/hebomegane/20071126/1196088398を読んで思い浮かんだ事をつらつらと。


ぼさぼさな髪をカットされている途中、眼鏡を外したために視界がぼやけて手元が見えず、雑誌を読むこともままならない。手持ち無沙汰な僕は仕方なしに慣れない世間話を美容師さんとしていた。前はよく休日に映画を見に行ったり、買い物を友達とよくしていたのに、最近は家に籠もって韓流ドラマばかり見ていますと、彼女は器用に僕の髪をカットしながら話をしていた。僕は韓流ドラマは正直どうかと言いかけたが思い直して、最近母もハマっているんですよと相槌を打つ。最近誰かと外に出るより、家にいる方が気楽なんですよね、苦笑を浮かべながら話す彼女の声が、今でも妙に印象に残っている。

独りになって長い。何とか社会生活を行う程度には人と接しているけど、それでも僕は独りだと思う。友と呼べる人とも、今や疎遠だ。一度仕事が終われば、僕の他には誰もいない、一見小綺麗に見える生活感無き部屋で、ベットに寝転がりながら本を読んだり、近所迷惑にならない程度の音量で音楽を聴きながら歌ったり、ぼーっとしながらネットをしたりして日々を過ごしてきたし、恐らくこれからもそうし続けるのだろう。それなりには快適だ。何を行うにせよ自由である。たとえどのような事にのめり込もうとも何も言われない。人目を憚らずに自分が楽しいと思う事を飽きるまでやる。時計も見ずに没頭気がつけば一日が終わっていたなんてざらだ。まさにソリチュードである。何の不満があろうか。

僕は孤独にならざるをえなったのか、それとも自ら率先して孤独を選択したのか、それは僕自身にも分からない。結果だけ述べれば、僕は独りぼっちという形容が相応しい人間になっていたということだ。こればかりは今すぐ変えようとしてもどうしようもない。僕が今こういう人間であるという事実は動かしがたいものである。変えようとしたところで、実際に変わるまで長い年月を必要とするだろうし、やもすると、変わることに失敗するかもしれない。そこまでして変わりたくない、というのが本音かもしれない。

好むと好まざるに関わらず、独りであることのツケとして、寂しさは時折風来坊のように現れては、僕を突然支配する。これに捕らわれたら、病に罹ったがごとく人恋しくなるけれども、僕の周りには当然誰もおらず、酷く苦しむ羽目になる。あの、楽しそうに見える人達。あの人達と僕は何かが決定的に違うのだと感じ、寂しいなんて口が裂けても言えない僕は、ひたすら、ただぼーっと眺めるだけ。僕は長い長い冬を堪え忍ぶ冬眠中の動物のように、少しずつ感覚を鈍らせる。感情は高ぶらせると、泣きかねないから。

僕の周りにいる、誰かと繋がっているあの人たちは、たぶん寂しい時に寂しいと言える人なんだろう。寂しさを表明できる人達というのは、一見弱そうに見えて、実は強いのだと思い知らされる。人に弱みを見せたくないと強がり、寂しいときに寂しいといえない僕は、いつか折れてしまうのかもしれない。風を受け流す柳と違って、必死に風に逆らって、挙げ句に突如折れる老木のように。

そういう寂しさと向き合って来たからか、必死に足掻いていている人を見るたびに、僕ももう少し足掻いてみるかという気持ちになる。同じような考えの人がいたからといって、僕は孤独じゃなくなるわけじゃないし、ましてやこの寂しさが無くなる訳じゃないけれど、少し安心する。ああ、僕だけじゃ無かったんだって。孤独には少し、慣れてきたがそれでも当分の間、僕はこの寂しさと向き合う事になるだろう。共闘するつもりじゃないけれども、他にも足掻いてる奴がいることでまだ戦えそうな気がする。綺麗な着地点じゃ無いのかもしれない。でも、僕が欲しいのはお澄ましな答えじゃなくて、今現在僕を苦しめているこの言いようのない空しさを、少しでも和らげてくれる方法だ。