憧憬

 彼女は蠱惑的な雰囲気を纏い、僕の目の前に座っていた。朝の柔らかな日差しの中、僕は手早くできる無難な朝食を作り、目の前にいる彼女と朝食を共にしている。スクランブル・エッグ、炒めたソーセージ、トーストにスープと目の前に並ぶ。ぎりぎり二人が食事できるぐらいのちょっとこぢんまりとしたテーブルに、僕と彼女がちょうど対になる格好で座っている。白のテーブルクロスは生命力に満ちた光を受けて、何時にも増して輝いているように見えた。


 セミロングぐらいの長さで、癖無くまっすぐに伸びた黒髪。艶やかな黒髪は陽光を反射して、抑制された光を放っている。透けるような白い肌に線の細い輪郭。瞳を見つめると、全てを吸い込み、全てを見透かされるような気がした。彼女は儚げで、触れたらどこかに消え去ってしまいそうな気がした。彼女の頬は、物鬱げな微笑を浮かべ、テーブルクロスに肘をかけながら、コーヒーカップに手を付けた。彼女は表情を変えぬままにコーヒーのカップに口をつける。一つ一つの動作は精練されており、それは本当に優雅な仕草で、その近づきがたい美しさは周りの空間から隔絶されていた。僕なんかが彼女の空間に立ち入ることは、とても邪なものに感じられた。


「ねえ」
彼女が遂に口を開く。僕は食事を飲み込んだあと、何だい、と返す。
「さみしさってなんだと思う」
僕はいきなり難しい問いかけだね、と答え、少し考えた。僕の手に余る問いだ。やはり答えは浮かばない。僕は正直にわからないと返答した。彼女はそう、と呟くとまた食事に戻った。沈黙が訪れる。彼女は食事を味わいながら、自分の放った言葉を咀嚼しているように見える。しばらくの間、まるで語る言葉を吟味するかのように黙考したのち、再びこう呟いた。
「私は、引力だと思うの」
僕は食事の手を止め、彼女の瞳をじっと見据えた。彼女はそれを確認すると、話を続けた。
「人はさみしいと、何かにに引きつけられるの。これはどうしようもないことなの。この引力に抗うことはできないし、抗っちゃだめなのよ」
「抗うと、どうなるのかな」
「傷つくわ、とてもね。自分がとても矮小な存在に思えてくるの。とても惨めよ。涙が零れ出すほどに。」
「あまり抗わない方がいいみたいだね」
「そうね」
「そうして惹かれた末に、何かに夢中になったり、誰かと繋がったりするんだと思うわ。」
「ということは」僕は戯けた口調で続ける。
「僕と君が今こうして、食事をしていることも、その引力に抗わずにいたことのたまものというわけだ」
そういうことになるわね、と彼女は笑いながら応えた。彼女の笑いが収まるまで時間はかからなかった。そして彼女がいつもの微笑を取り戻したのを確認すると、僕は再び続けた。

「ならば」
「惹かれた対象に決して近づけないのならば、どうなるのだろうね」
「難しい問いかけね」こう応じたのち、僕と彼女の間に再び沈黙が生ずる。彼女の眉間に皺が寄る。心地の良い沈黙が空間を支配する。そして再び彼女は口を開く。
「とてもつらいわね」
「だろうね」
「あなたがいなくなるのって、たぶんそういうつらさよ」
思わぬ言葉に、そういってくれると嬉しいよ、とあり合わせの言葉を返し、僕は照れながら、はにかんだ笑顔を浮かべる。彼女はそれをとらえると、さらに言葉を重ねた。
「あなたといるとさみしくないの。たぶんそれは、あなたが優しいからよ」
「僕は特別に君に優しくしようとはしてないよ」
「そう言いながらあなたは、私の話を厭な顔もせずに聞いてくれるじゃない」
「君の話は、いつもおもしろいから」
「私が優しいと思うのはあなたのそう言うところよ」
彼女の言葉を聞くたびに、僕は心の暖炉に薪をくべられたような気持ちになる。引力は益々強さを増した。
「ねえ」僕は彼女に語りかける
「君が優しいから、僕は君に触れたいと想うくらいに惹かれてしまっているよ。これは引力かな」
「どうかしらね」彼女は悪戯な笑みを浮かべ、挑戦的な言葉を返す。僕は思わず自分の右手を伸ばし、彼女の頬に指先を近づけた。彼女は一瞬驚いたものの、拒否の仕草は、遂にしなかった。お互いの目と目が惹かれあう。そして肌に触れ、彼女のぬくもりを感じ取った刹那。


 僕は泣いていた。さっきまで暖かな眼差しを浮かべていた彼女はいなかった。胸に決して満たされることのないさみしさが去来する。朝の鋭い光が僕を照らす。僕は毛布を退けてベットから抜け出した。意識が覚醒するにつれ、先刻までの記憶が無意識の生み出した産物であったとの確信を深めていく。それはとてもつらい作業だった。彼女に対する憧憬が、僕の胸を締め付ける。僕はいつものように身支度を整える。テーブルクロス、スクランブルエッグ、そして彼女。時間が経つと共に、記憶は砂時計のように徐々に抜け落ちていく。そして遂に夢の記憶は完全に消え去り、残ったのは彼女がくれた優しさへの憧憬だけだった。