過ぎない夏

夏。茹るような暑さで、体中の水分という水分が無くなるかという中、僕は自転車を走らせていた。ちょうど峠の半ば。ふと顔を下に向けると、アスファルトが日光を一心に受け止め、その温度はおそらく想像を絶することになってるのだけは容易に予想がついた。本当はこのまま顔を下に向けたままずっと峠を登っていきたいほどに疲れ果てていた。しかし、安全上の理由からというのもあるけど、先行きも分からずに航海を続けて難破するような真似は避けたいので、僕は集中力を失った頭で、辛うじてこの先がどういうコースになっているのかが分かるぐらいに軽く頭を上げ、これから行く道筋を確認した。アスファルトの上を蒸気が泳いで、前方の視界は歪んでいる。見た限りでは頂上は先らしい。僕は息も切れ切れの状況のなか、辛うじて判別できるかできないか位の、極めて浅いため息をついた。

10分ほど、漕いだだろうか。ようやく一息つけそうな木陰を見つけた。そこに車の邪魔にならないように自転車を止め、影に腰を落ち着け、リュックから2リットルのペットボトルを取り出した。ペットボトルの中の空気と麦茶の境界線は、ちょうど半分くらいのところで均衡を保っている様に見えた。僕は何も考えず飲み干そうとする。暑さで生ぬるくなっているが、そのようなことは気にならない。この喉の渇きを潤すのにそんな悠長な事は言っていられない。スポンジになったような気分で口に含んでいると、気がついたら四分の一程度になっていた。全身から吹き出る汗をタオルで拭う。白のTシャツは汗を吸って、まるで大雨に打たれたかのようになっている。肌は見事な小麦色に焼けていた。肩が火傷で軽く痛いのを除けば、心地よい気怠さが全身に染み入っていた。僕はそのままいつまでもここに立ち止まって居たい衝動に駆られたが、すんでのところで持ちこたえた。まだ目的地は遠いし、人生は長い。こんな場所で道草を食っている訳にはいかないのだ。僕は荷物を纏めると再び峠を上り始めた。

もうすぐ峠の頂上にたどり着く。僕は極めてリズミカルに自転車を漕いでいたけど、時折その正確に刻んだビートが乱れることがあった。休憩を度々入れた後ですら、僕の体は言うことを聞かず、整備不良で出来損ないのロボットのような有様だった。こんなに長時間のクライムになるとは、登り始めたときには思ってすらいなかった。そうしておおよそシステマティックかつ、どこかたどたどしさを伴った僕のヒルクライムが遂に終わりを告げたのは、結局登り初めて二時間後のことだった。あれだけの急勾配を登り終えただけに、もうこれ以上自転車を漕ぐのはうんざりだった。ただ自転車がジェットコースターの様に、地上までノンストップで滑り落ちていくのを、何も考えることなく、ただサドルの上で風を感じることだけに集中していた。さっきまであんなにスローモーションだった風景が、いきなり早送りになったように、スピーディーに様々なものが視界に写っては遠ざかっていく。風がぐしょぐしょに濡れた僕の汗を、その体温ごと奪い去っていってくれる。それが何にも増して心地よかった。往々にして心地よい時間が過ぎるのは早いもので、このジェットコースターのような時間も例外ではなかった。だが悪い事ばかりではない。目的地は近い。

そこからしばらく道路沿いを道なりに行くと、しばらくしたら海が見えた。ここが今日の目的地だ。まだ季節的に早いというのもあるのだろう、辺りには海水浴に来てるような人は見当たらなかった。しばらく浜辺沿いの道路を行き、適当な所で自転車を止め、タイヤにロックを掛けて、リュックを掲げて浜辺へと向かった。潮の匂いがした。

浜辺からは波の音と風の音以外には何も聞こえなかった。見渡した限りでは、遠くに小指ほどの大きさの、人影と犬が見えるくらいだ。おそらく散歩コースなのだろう、僕もこの近くに住んだとしたら、毎日欠かさず散歩をすることだろう。たとえ犬を飼っていなくとも。空はどんなことも嘲笑いそうなくらい、堂々として青々としていた。遠くに化け物じみた大きさの入道雲が見える。その入道雲と、腹が立つほどに燦々と照った太陽を見上げると、なんだか全ての悩みを、この浜辺に置きされそうな気がした。僕は近くに座れそうなブロック塀を見つけると、そこに腰を落ち着けて、飽きることなく波が寄せては返すのを見続けた。活力に満ちた周りの風景で僕だけが浮いているように思えた。

波を見るのに飽きると、少し涼しげな日陰はないかと辺りを散策した。日陰はすぐに見つかった。この辺りは元々松林が多い。その気になれば、ちょっとした避暑地を見つけだすことができるのは時間の問題だった。僕はそこで涼みながら、まずペットボトルに残っていた麦茶を飲み干した。そしてリュックから本を取り出して読むことにした。本はチャールズ・ボブソンの、ある冬の日の憂鬱という小説。この本は買ってから今まで読んでなかったけど、こんな機会でもなければ読むことは永久にないだろうから、好都合といえば好都合だった。結論としてこの本は僕の時間を見事に奪い去ることに成功した。僕のような少々理屈好きのひねくれものの為にあるような小説だった。この本を話す相手がそばにいないことが残念であったけど、それ以外は文句の付けようがないほどに素晴らしかった。

気がつくと、茜色の夕日が水平線の向こうへ逃げ去ろうとしていた。あれほど気持ちよいほどに輝いていた空はどこかへと消え去っていた。僕はそんな夕日を見ながら、どうしようもない悲壮感を感じてしまった。寂しげな表情を浮かべながら、敢えてまたね、とは言わずにサヨナラを告げて走り去っていく友人のような印象を覚えた。なんでこんな事を考えてしまったのか色々思い悩んでいたけど、結局答えは見つからなかった。まあいい、答えの見つからないことは多いものだし、宝探しは嫌いじゃない。そんな思考を重ねながら、沈んでいく夕日を見つめていた。ふと、この夕日が去ってしまわなければいいのになんてことを考えた。僕だって暮れない夕日がないことや、過ぎない夏はないことは分かっていた。でも、どうしてもこの夕日が過ぎ去ってしまうことだけは耐えられそうになかった。何かを喪っていくような、錯覚とも確信ともいえぬ奇妙な感覚だった。

夜になって、少し肌寒くなっていた。雲は消え去り、その代わりに満天の星空が見える。星がこんなに綺麗なことを、今まで知らなかった自分を少しながら恥じていた。浜辺に寝そべりながら星を見ていた。そうしてしばらく星を眺めながら、このまま一晩を過ごすのも悪くないかなと思っていたところ、ポケットが不意に震えた。反射的に携帯を取り出すと、着信だった。名前を確認する。可世子からだった。僕は電話に出た。
「どうしたの」
「うん、この前のことなんだけど、少し聞きたくって」
少し戸惑っているような、緊張してることを伺わせる声。
「僕もちょっと話したかったから、ちょうど良かった」
僕もあのままで終わらせるつもりはなかったけど、この瞬間まで忘れていた、いや、忘れようとしていたのかもしれない。
「最初に聞きたいんだけど」
「うん」
少し間が開いて、可世子が口を開いた。
「私の事、本当に好きなのかなって」
「どう説明すればいいのかな」
僕は寝そべったまま考えた。
「夜空を思い浮かべてみてくれないかな」
僕は見つからない答えを探し求めた。それが合ってるかどうか分からないけど、けど言葉にしなければいけない時もある。
「雲一つない、気味が悪いくらいに満天の星空。ある時そこに流れ星が流れるんだ」
「その流れ星は、刀の上を滑るように、危うさと美しさを秘めていて」
「流れ星を見た僕は、思わず願い事をすることも忘れるくらい、食い入るように見つめるんだ。といっても、一瞬で過ぎ去ってしまうんだけどね」
彼女は何も聞かずに聞いてくれている。それが有難かった。
「それを見た僕は、なんて素敵な流れ星だって思うんだ。無神論者の僕でも神の存在を信じそうになるくらい」
そして一呼吸間を置いた。いや、置いてしまった。
「それくらい、君のことが好きなんだ」

それからしばらく可世子と話し続けたのち、電話を切った。それから、寝転がって、しばらく星空を見た。結局自転車を置いた場所に戻る事にした。このまま一夜を過ごすには、いささか寒くなりそうに思えたからだ。それでもここを過ぎ去るのは名残惜しかったけれど。まだ夏は始まったばかりだ。また来ることができるだろうか。そんな事を思いながら、再び自転車を漕ぎ始めた。