パラダイス・ロスト(1)

どうしてだろう、こんなことを考えたのは。僕はなぜこんなことを考えていたのか、自分でもよくわからなかった。唯一つ言える事は、このなかには真実と呼べるような純真で混じりけのないものなど、何もないということだけだった。それは打算と混乱と後悔に満ちていた。始まりはそう、夏だった。

 僕と冬実は元々親しかったわけではない。恐らく偶然の産物で、たまたま通う学校が一緒になり、たまたまクラスが一緒だった。それ以外には僕たちの間には何もなかったし、これからも僕たちの間には何も起こることはなかったはずだった。ここでは詳細な説明を控えるけれど、僕はとても感じやすい人間だった。それは自分にとってはちょっとしたことだとしか思わなかったけれど、しかしクラスメートや教師、学校といった、僕の外の人たちは僕のそういった感じやすさにいささか辟易していたようだった。つまり、僕は孤立していた。その責任が僕にあるといえば、僕は素直にそう認めざるを得ないだろうし、僕はそのことに対してまったくの罪悪感や、痛痒を感じてはいなかった。外に交わる態度を積極的に取るつもりはなかったし、これからも社交的な振る舞いを取るよりは、縁側の席で生ぬるい夏の風に吹かれながら、好きな本でも読む方が効率的‐人生にもし効率という指標があるなら‐だと思えたからだ。今になって思い返せば、効率なんてものは幻想だし、全ての行動に対し可否などつけようのないことは自明であったわけだけど、その事について当時の僕は恐ろしいほどに無感覚だった。強引な解釈をすれば、これが若さということなのかもしれない。それまでは冬実はそういった外側の人間の一人に過ぎなかった。

 僕はかくいうわけで、餌に困っていない野良猫のように自由を満喫していた。孤独は僕の友人のように振る舞い、余りある時間を消費して漫画や、本や、音楽を血肉としていった。その事は今になっても後悔していないし、当時の僕はそういった知的とされる趣味に興じない人間は、馬鹿だと切って捨てていた。そのようにして僕の高校生活は緩慢で予定調和のような三年間を終えるはずだった。それにノイズが混じり始めたのは、高校2年の時の8月だった。

 僕の通っている高校は世間的には進学校と呼ばれていて、概ね進学校のイメージと乖離することなく、受験勉強を指向したカリキュラムや授業が組まれていた。夏期講習もその一環で、夏休みにも関わらず生徒は夏の暑い中、登校し授業を受ける必要があった。冷房の入っていない部屋で受ける授業の学習効率について僕は前から疑問を持っていたけれども、それを訴えたところでどうにもならないと少し諦めるようになっていた。仕方無しに僕は授業を受けているふりをしながら、いつものように文庫本を読んでいた。若きウェンテルの悩み。夏に読むには最高に暑苦しい小説であったけれど、少なくともまともに授業を聞くのに比べたら遥かにマシな選択肢のように思えた。その夏にはあと、夜間飛行を読んだ。他にも色んな本を読んでいたけど、記憶には残っていない。授業の間の休み時間や、本を読むのに飽きたらと僕は空を見上げていた。幸いなことに席が窓際だったので、直射日光をまともに受けるというデメリットがあるけれども、空を見上げるには最高のロケーションだった。ある時には蝉の断末魔のような叫び声に耳を傾け、またあるときは飛行機雲の軌跡を眺めた。空を見つめながら僕は現実のことを忘れ、しばしば自分の意識の声に耳を傾ける作業へと没頭していた。

 僕は毎日毎日学校に通いつつ、授業を聞くふりをしながら本を読むという極めて規則正しい日々を送りながら、勉強というものの意味や、生きるということの意味や、授業の合間に下らない冗談を言っては笑うクラスメート達の人間関係についてや、正論ぶる教師の横柄さの正当性についてなどを考えていた。そうして過ごしていると、日に日に自分の存在がなんだか薄くなっていくような気がした。教室に存在している机や教壇といったものに同質化していくような、そんな感覚を覚えていた。空は毎日、相変わらずの蒼さだった。それを見ていると、僕は時々どうしようもなくいたたまれない気持ちになった。率直に言って、僕はまいっていたのだと思う。

 そうした日々を過ごしていたある日の事だ。学校が終わると僕は背中を汗で濡らしながら駅まで歩き、いつもと同じ時刻にやってくる鉄の箱に揺られながら帰るつもりだった。その日は冬実が一緒に乗り合わせてきた。といっても、それは極めて性質の悪い偶然の産物で、このような偶然が何度も起こりうるのであれば、僕は天文学的希少性の影に見え隠れする、いわゆる神と称される悪戯心を持った厄介者の存在を疑わずにはいられないだろうほどだった。幸いそのような事は二度と起こらなかったが、このようなことが何故起こってしまったのか、今になっても確信をもって語ることが出来る理由を僕は持ち合わせていない。因果についてはともかく、それは起こった。