パラダイス・ロスト(1)

どうしてだろう、こんなことを考えたのは。僕はなぜこんなことを考えていたのか、自分でもよくわからなかった。唯一つ言える事は、このなかには真実と呼べるような純真で混じりけのないものなど、何もないということだけだった。それは打算と混乱と後悔に満ちていた。始まりはそう、夏だった。

 僕と冬実は元々親しかったわけではない。恐らく偶然の産物で、たまたま通う学校が一緒になり、たまたまクラスが一緒だった。それ以外には僕たちの間には何もなかったし、これからも僕たちの間には何も起こることはなかったはずだった。ここでは詳細な説明を控えるけれど、僕はとても感じやすい人間だった。それは自分にとってはちょっとしたことだとしか思わなかったけれど、しかしクラスメートや教師、学校といった、僕の外の人たちは僕のそういった感じやすさにいささか辟易していたようだった。つまり、僕は孤立していた。その責任が僕にあるといえば、僕は素直にそう認めざるを得ないだろうし、僕はそのことに対してまったくの罪悪感や、痛痒を感じてはいなかった。外に交わる態度を積極的に取るつもりはなかったし、これからも社交的な振る舞いを取るよりは、縁側の席で生ぬるい夏の風に吹かれながら、好きな本でも読む方が効率的‐人生にもし効率という指標があるなら‐だと思えたからだ。今になって思い返せば、効率なんてものは幻想だし、全ての行動に対し可否などつけようのないことは自明であったわけだけど、その事について当時の僕は恐ろしいほどに無感覚だった。強引な解釈をすれば、これが若さということなのかもしれない。それまでは冬実はそういった外側の人間の一人に過ぎなかった。

 僕はかくいうわけで、餌に困っていない野良猫のように自由を満喫していた。孤独は僕の友人のように振る舞い、余りある時間を消費して漫画や、本や、音楽を血肉としていった。その事は今になっても後悔していないし、当時の僕はそういった知的とされる趣味に興じない人間は、馬鹿だと切って捨てていた。そのようにして僕の高校生活は緩慢で予定調和のような三年間を終えるはずだった。それにノイズが混じり始めたのは、高校2年の時の8月だった。

 僕の通っている高校は世間的には進学校と呼ばれていて、概ね進学校のイメージと乖離することなく、受験勉強を指向したカリキュラムや授業が組まれていた。夏期講習もその一環で、夏休みにも関わらず生徒は夏の暑い中、登校し授業を受ける必要があった。冷房の入っていない部屋で受ける授業の学習効率について僕は前から疑問を持っていたけれども、それを訴えたところでどうにもならないと少し諦めるようになっていた。仕方無しに僕は授業を受けているふりをしながら、いつものように文庫本を読んでいた。若きウェンテルの悩み。夏に読むには最高に暑苦しい小説であったけれど、少なくともまともに授業を聞くのに比べたら遥かにマシな選択肢のように思えた。その夏にはあと、夜間飛行を読んだ。他にも色んな本を読んでいたけど、記憶には残っていない。授業の間の休み時間や、本を読むのに飽きたらと僕は空を見上げていた。幸いなことに席が窓際だったので、直射日光をまともに受けるというデメリットがあるけれども、空を見上げるには最高のロケーションだった。ある時には蝉の断末魔のような叫び声に耳を傾け、またあるときは飛行機雲の軌跡を眺めた。空を見つめながら僕は現実のことを忘れ、しばしば自分の意識の声に耳を傾ける作業へと没頭していた。

 僕は毎日毎日学校に通いつつ、授業を聞くふりをしながら本を読むという極めて規則正しい日々を送りながら、勉強というものの意味や、生きるということの意味や、授業の合間に下らない冗談を言っては笑うクラスメート達の人間関係についてや、正論ぶる教師の横柄さの正当性についてなどを考えていた。そうして過ごしていると、日に日に自分の存在がなんだか薄くなっていくような気がした。教室に存在している机や教壇といったものに同質化していくような、そんな感覚を覚えていた。空は毎日、相変わらずの蒼さだった。それを見ていると、僕は時々どうしようもなくいたたまれない気持ちになった。率直に言って、僕はまいっていたのだと思う。

 そうした日々を過ごしていたある日の事だ。学校が終わると僕は背中を汗で濡らしながら駅まで歩き、いつもと同じ時刻にやってくる鉄の箱に揺られながら帰るつもりだった。その日は冬実が一緒に乗り合わせてきた。といっても、それは極めて性質の悪い偶然の産物で、このような偶然が何度も起こりうるのであれば、僕は天文学的希少性の影に見え隠れする、いわゆる神と称される悪戯心を持った厄介者の存在を疑わずにはいられないだろうほどだった。幸いそのような事は二度と起こらなかったが、このようなことが何故起こってしまったのか、今になっても確信をもって語ることが出来る理由を僕は持ち合わせていない。因果についてはともかく、それは起こった。

過ぎない夏

夏。茹るような暑さで、体中の水分という水分が無くなるかという中、僕は自転車を走らせていた。ちょうど峠の半ば。ふと顔を下に向けると、アスファルトが日光を一心に受け止め、その温度はおそらく想像を絶することになってるのだけは容易に予想がついた。本当はこのまま顔を下に向けたままずっと峠を登っていきたいほどに疲れ果てていた。しかし、安全上の理由からというのもあるけど、先行きも分からずに航海を続けて難破するような真似は避けたいので、僕は集中力を失った頭で、辛うじてこの先がどういうコースになっているのかが分かるぐらいに軽く頭を上げ、これから行く道筋を確認した。アスファルトの上を蒸気が泳いで、前方の視界は歪んでいる。見た限りでは頂上は先らしい。僕は息も切れ切れの状況のなか、辛うじて判別できるかできないか位の、極めて浅いため息をついた。

10分ほど、漕いだだろうか。ようやく一息つけそうな木陰を見つけた。そこに車の邪魔にならないように自転車を止め、影に腰を落ち着け、リュックから2リットルのペットボトルを取り出した。ペットボトルの中の空気と麦茶の境界線は、ちょうど半分くらいのところで均衡を保っている様に見えた。僕は何も考えず飲み干そうとする。暑さで生ぬるくなっているが、そのようなことは気にならない。この喉の渇きを潤すのにそんな悠長な事は言っていられない。スポンジになったような気分で口に含んでいると、気がついたら四分の一程度になっていた。全身から吹き出る汗をタオルで拭う。白のTシャツは汗を吸って、まるで大雨に打たれたかのようになっている。肌は見事な小麦色に焼けていた。肩が火傷で軽く痛いのを除けば、心地よい気怠さが全身に染み入っていた。僕はそのままいつまでもここに立ち止まって居たい衝動に駆られたが、すんでのところで持ちこたえた。まだ目的地は遠いし、人生は長い。こんな場所で道草を食っている訳にはいかないのだ。僕は荷物を纏めると再び峠を上り始めた。

もうすぐ峠の頂上にたどり着く。僕は極めてリズミカルに自転車を漕いでいたけど、時折その正確に刻んだビートが乱れることがあった。休憩を度々入れた後ですら、僕の体は言うことを聞かず、整備不良で出来損ないのロボットのような有様だった。こんなに長時間のクライムになるとは、登り始めたときには思ってすらいなかった。そうしておおよそシステマティックかつ、どこかたどたどしさを伴った僕のヒルクライムが遂に終わりを告げたのは、結局登り初めて二時間後のことだった。あれだけの急勾配を登り終えただけに、もうこれ以上自転車を漕ぐのはうんざりだった。ただ自転車がジェットコースターの様に、地上までノンストップで滑り落ちていくのを、何も考えることなく、ただサドルの上で風を感じることだけに集中していた。さっきまであんなにスローモーションだった風景が、いきなり早送りになったように、スピーディーに様々なものが視界に写っては遠ざかっていく。風がぐしょぐしょに濡れた僕の汗を、その体温ごと奪い去っていってくれる。それが何にも増して心地よかった。往々にして心地よい時間が過ぎるのは早いもので、このジェットコースターのような時間も例外ではなかった。だが悪い事ばかりではない。目的地は近い。

そこからしばらく道路沿いを道なりに行くと、しばらくしたら海が見えた。ここが今日の目的地だ。まだ季節的に早いというのもあるのだろう、辺りには海水浴に来てるような人は見当たらなかった。しばらく浜辺沿いの道路を行き、適当な所で自転車を止め、タイヤにロックを掛けて、リュックを掲げて浜辺へと向かった。潮の匂いがした。

浜辺からは波の音と風の音以外には何も聞こえなかった。見渡した限りでは、遠くに小指ほどの大きさの、人影と犬が見えるくらいだ。おそらく散歩コースなのだろう、僕もこの近くに住んだとしたら、毎日欠かさず散歩をすることだろう。たとえ犬を飼っていなくとも。空はどんなことも嘲笑いそうなくらい、堂々として青々としていた。遠くに化け物じみた大きさの入道雲が見える。その入道雲と、腹が立つほどに燦々と照った太陽を見上げると、なんだか全ての悩みを、この浜辺に置きされそうな気がした。僕は近くに座れそうなブロック塀を見つけると、そこに腰を落ち着けて、飽きることなく波が寄せては返すのを見続けた。活力に満ちた周りの風景で僕だけが浮いているように思えた。

波を見るのに飽きると、少し涼しげな日陰はないかと辺りを散策した。日陰はすぐに見つかった。この辺りは元々松林が多い。その気になれば、ちょっとした避暑地を見つけだすことができるのは時間の問題だった。僕はそこで涼みながら、まずペットボトルに残っていた麦茶を飲み干した。そしてリュックから本を取り出して読むことにした。本はチャールズ・ボブソンの、ある冬の日の憂鬱という小説。この本は買ってから今まで読んでなかったけど、こんな機会でもなければ読むことは永久にないだろうから、好都合といえば好都合だった。結論としてこの本は僕の時間を見事に奪い去ることに成功した。僕のような少々理屈好きのひねくれものの為にあるような小説だった。この本を話す相手がそばにいないことが残念であったけど、それ以外は文句の付けようがないほどに素晴らしかった。

気がつくと、茜色の夕日が水平線の向こうへ逃げ去ろうとしていた。あれほど気持ちよいほどに輝いていた空はどこかへと消え去っていた。僕はそんな夕日を見ながら、どうしようもない悲壮感を感じてしまった。寂しげな表情を浮かべながら、敢えてまたね、とは言わずにサヨナラを告げて走り去っていく友人のような印象を覚えた。なんでこんな事を考えてしまったのか色々思い悩んでいたけど、結局答えは見つからなかった。まあいい、答えの見つからないことは多いものだし、宝探しは嫌いじゃない。そんな思考を重ねながら、沈んでいく夕日を見つめていた。ふと、この夕日が去ってしまわなければいいのになんてことを考えた。僕だって暮れない夕日がないことや、過ぎない夏はないことは分かっていた。でも、どうしてもこの夕日が過ぎ去ってしまうことだけは耐えられそうになかった。何かを喪っていくような、錯覚とも確信ともいえぬ奇妙な感覚だった。

夜になって、少し肌寒くなっていた。雲は消え去り、その代わりに満天の星空が見える。星がこんなに綺麗なことを、今まで知らなかった自分を少しながら恥じていた。浜辺に寝そべりながら星を見ていた。そうしてしばらく星を眺めながら、このまま一晩を過ごすのも悪くないかなと思っていたところ、ポケットが不意に震えた。反射的に携帯を取り出すと、着信だった。名前を確認する。可世子からだった。僕は電話に出た。
「どうしたの」
「うん、この前のことなんだけど、少し聞きたくって」
少し戸惑っているような、緊張してることを伺わせる声。
「僕もちょっと話したかったから、ちょうど良かった」
僕もあのままで終わらせるつもりはなかったけど、この瞬間まで忘れていた、いや、忘れようとしていたのかもしれない。
「最初に聞きたいんだけど」
「うん」
少し間が開いて、可世子が口を開いた。
「私の事、本当に好きなのかなって」
「どう説明すればいいのかな」
僕は寝そべったまま考えた。
「夜空を思い浮かべてみてくれないかな」
僕は見つからない答えを探し求めた。それが合ってるかどうか分からないけど、けど言葉にしなければいけない時もある。
「雲一つない、気味が悪いくらいに満天の星空。ある時そこに流れ星が流れるんだ」
「その流れ星は、刀の上を滑るように、危うさと美しさを秘めていて」
「流れ星を見た僕は、思わず願い事をすることも忘れるくらい、食い入るように見つめるんだ。といっても、一瞬で過ぎ去ってしまうんだけどね」
彼女は何も聞かずに聞いてくれている。それが有難かった。
「それを見た僕は、なんて素敵な流れ星だって思うんだ。無神論者の僕でも神の存在を信じそうになるくらい」
そして一呼吸間を置いた。いや、置いてしまった。
「それくらい、君のことが好きなんだ」

それからしばらく可世子と話し続けたのち、電話を切った。それから、寝転がって、しばらく星空を見た。結局自転車を置いた場所に戻る事にした。このまま一夜を過ごすには、いささか寒くなりそうに思えたからだ。それでもここを過ぎ去るのは名残惜しかったけれど。まだ夏は始まったばかりだ。また来ることができるだろうか。そんな事を思いながら、再び自転車を漕ぎ始めた。

白昼夢

夢を見なくなった。いや、見ているのかもしれない。どうやら窓から光が僕を起こしにやって来るのと同時に、存在の不確定な僕の夢は、光と共に消えてしまっているようだ。そういうわけだから僕は寝ることを無意識の冒険の時間としてというよりは、むしろ純粋な休息の時間として捉えていることの方が多い。

どこまでものっぺりとしていて何だかあやふやで現実感に欠けた現実。天から降ってくるように課せられる、やるべき事の数々。ライン工のように無機質にそれをこなす事に手一杯で、気がつけばカレンダーをめくる日がやって来ていた。そんな日々。そんな日常はやがて段々と加速していき、僕から感情を奪い、真綿をしめるような優しさで僕を歯車へと仕立て上げていく。それに抗う事は愚行以外での何者でもないし、僕にできることはただ、上手くやろうと、即ち良い歯車であろうとする位だ。

たまの休息に消費する娯楽は、ジャンクフードのような味わいで、あの頃の尖っていた感性がいつの間にか抜け落ちて行くのを実感しながらも、それに対して僕は何を成すべきか何も思いつかない。

幸せを放したくなければ、今を粗暴には扱わないことだ。幼き日の子供が、落としたら砕け散ってしまうような、儚さと、煌めきをもった大事な何かを手にするように、丁寧に、丹念に扱うべきだ。その一方でどんなに今、甘美な果実のような味わいを堪能していても、隣の芝は青く、林檎は美味しそうにそうに見える。
瞳が移す幻想だと感じながらも、その泣けるほどに美しい思春期の憧憬は、僕を時々どうしようも無く蠱惑した。

夢の日々にサヨナラを告げ、すこし砂を噛み締めたような味のする現実を受け入れる程に、僕はリアリストではなかったようだ。今はただ、誰にも告げられぬ、甘美な秘密の楽園を少しの間、そう、きちんと戻ってこられる程度の狡猾とも言っていい臆病で、冷徹な打算に基づくノスタルジックな懐古の時間を設ける事としよう。この瞳に映るものが真実だとは限らないのと同じくらいには、僕の過去は時に脱色されたキラキラとした淡い思いに満ちている。

昔に生き、今を忘れる人に対して、今は厳しい態度を示すのは言わずもがなだが、せめて束の間の虚空のなかでの追憶ぐらい、見逃してくれてもいいよね、なんて甘えた姿勢を示す僕は、やはり甘ちゃんと言われても受け入れるほか無いのかもしれない。

夢を見なくなった僕は、白昼夢を見ているのかもしれない。それは未来へ広がる無限大の希望というよりは、過去が映し出す哀愁に満ちた蜃気楼のようなのだろうか。

一年を振り返って

今年ももう終わり。今月は月の終わりが特に忙しく、ネットを見る暇も禄になかった。そんな中、この前同僚と話していると、一年が過ぎるのは本当に早いなという言葉がぽつりと出た。確かに一瞬だった。それに濃かった。振り返ればいろんな事を始めた一年だったように思える。ネット上でもニコニコ動画Twitterと、素晴らしいユーザー体験をもたらしてくれるウェブサービスが登場して、僕のネットライフは益々充実している。生活上でも忘れられない経験もした。その人とはもう話すことは無いと思う。けれども大切なものをたくさん貰った。多分ここを見ることは無いと思うけどこの場で感謝の意を表明したいと思う。あと、生活環境が、ガラリと変わった。適応するのに苦労したけど、それだけ得られる物も多かった。そう結ぶ事ができそうだ。

変化のスピードが速いネットにどっぷり浸かっている一方で、僕は変化が怖くて、今ままでのぬるま湯のような状況がいつまでも続けばいいと、いろんな決断を先延ばしにすることが本当にびっくりするくらい多かった。けれど今年はそういった先延ばしを辞めた、そこが起点になったように思える。何か新しい事を始めるのはいつもおっかなびっくりで、結構失敗することも多い。けれどそういった失敗を何回も積み重ねて次第に何かできるようになる。これは凄く心躍る体験だった。ブログを書き始めたこともその一つ。ほとんど書き散らしに近かった自分のブログを少しはまともに読める文章を書こうと思って心機一転して書き始めたのが数ヶ月前。そこから思わぬ出会いがあって、ああ、躊躇せずに始めてよかったな、と心から思える。

まだこのブログも続くかどうかわからないけど、少数ながら更新の度に読んでくれる人がいるので、人の縁を大事さを噛み締めた上で読んでくれる人に向けて書き続けてみようというのが来年の抱負。基本的に飽きっぽくて何かを継続するのは苦手だけれど、書くことは続けていきたいなと思ってる。


来年は今年よりも生活上の変化が大きくなるはずの一年になると思う。それでも愚図らず、思い切って変化を楽しんでみよう、自分の心が惹かれる方向に逆らわずに。願わくば、来年は更なる飛躍の年でありますように。皆さん、良いお年を!

或る一日の出来事

飲み会があった。いわゆる忘年会という奴。職場の飲み会というのが面白かった試しがないけど、拒否権などというものは当然ながらないので、内心渋々ながら参加する。今年もまた色々やらされるのだろうなと、鬱々とした気持ちで会場に向かう。

笑いものにされ、嘲笑する人達、笑ってごまかす僕。彼らに多分、悪意はない。嘲笑には慣れている。面罵される日々に適応する過程で、そうした嘲りや嗤いは一種の風景のように感じるようになった。今日もそうして自分も一緒に笑う度に、自分のなかの何かが失われていくような、そんな感覚。酒の酔いが廻ってて良かった。たぶん酔ってたら耐えられなかっただろう。酒は人を麻痺させる。僕の中にある感覚が麻痺していく。これは嵐だ。君はひたすらこの嵐を耐えながらやりすごすんだ。君に課せられた任務は、何でも無い顔をして、道化を演じる事。分かったね?そう自分に言い聞かせながら、馬鹿になる。酒を呑む。ひたすら酒を呑む。さあ、待ちに待ったカーニバルだ。道化よ、踊れ。

終電が近くなる。僕はそろそろ終電が近いので、と笑顔を忘れず、元気よく挨拶して、その場を後にする。やっと終わった、とすこし開放感。外に出ると火照った顔が冷えて気持ちいい。地下鉄に乗って、乗り継いで終電に乗る。電車の中、ぼーっとした頭で本を読む。サリンジャーキャッチャー・イン・ザ・ライを再読。酔った状態でおかしくなって笑ってしまうくらい、ホールデン少年はまっすぐだった。僕もこんなに素直だったら、少しは生きやすいのかなとぼーっとしながら考える。

そうこうしているうちに電車が終点に到着する。そこそこの人数が乗っていたはずなのだけど、降りるとき、人は疎らだった。駐輪所まで向かい、自転車に乗ろうとしたけど、自分でも危ない足取りだと気づいたので、自転車を押しながら歩いて帰る。歩く度に、渇きが僕を襲う。iPodACIDMANの曲を適当にかけながら、思いっきり歌う。田舎だから、人目を気にせず思い切り歌える。車も滅多に通らない。喉が渇いた状態で歌うと、喉を痛める危険があるけど、そんなの気にせずに歌う。そうしてるうちに自宅にたどり着く。帰宅して、すぐに水を飲む。渇きを潤す。

すぐには寝なかった。酔った状態で寝たくないのだ。その日の内に毒気は抜いてしまいたい。だから酔いが抜けたな、と思うまで、渇きを覚える度に水を飲み、アルコールを排出する。酩酊した状態じゃ何もしても頭に入らないとは分かっていても、何かをせずにはいられない。できるだけ何かに没頭していないと、なんか嫌なことを思い出してしまいそうな。夜中なのでできるだけ周囲に響かない程度の音量でiTunesをかける。不意に流れるアジカンのアンダースタンドを聴いてると、不意に涙が流れた。

Twitter雑感

Twitterにアカウントを登録して半年以上経つ。放置していた期間が結構長いので、実質三、四ヶ月程だろうか。主にラップトップのTwitで更新を眺めることが多く、出先ではMovatwitterからちょくちょく独り言を呟いたりといった具合だ。始めた当初はfollowerが一桁で特に知人を招待するでもなく日々の行動などを呟いていた。ちょっと積極的に活用しようかな、と一念発起したのが数ヶ月前で、普段読んでいるブログの人とかを積極的にFollowingするようになってから、俄然面白くなってきた。


ブロガーにとってTwitterは楽屋のようなもので、その人のブログを読むだけでは分からない文脈のようなものが、Twitterを経由することで浮き出ることもある。140字という文字制限が功を奏したのか、普段垣間見ることのできない、凝縮された生の思考の断片が次々と生み出されていく。そうして生まれた思考の断片がパッケージング化される形でブログの記事になっているのを見ると、今まで静的なモノとして捉えていたエントリーが、思考のダイナミズムの結晶として生み出されていたのかと、以前とは違う目線で眺めることが多くなった。Twitter上で生まれる生の言葉の断片達は溌剌とした生命力に満ちていて、下手にそれをエントリ化するよりも面白かったりすることもある。


百人いれば百人分のTwitterの使い方がある。Think logとして使う人もいれば、Life logとして使う人もいる。チャットツールとして使う人もいる。ネトゲのチャットというのは絶妙な例えで、緩く繋がっている感覚は、ネトゲのそれと非常に似ている。開始当初はそれほどでも無かったものの、Followingが3桁を超えると、さながら街中の喧騒だ。ある人が考え事を呟く傍らで、他の人がたわいもないお喋りをしている。駄洒落好きなオジサンの隣で、哲学について熱弁を振るう人もいたり、不思議な空間だ。カオスといってもいい。

いつもではなく、ふとまれにだが、そう言った雑踏の中にいると、得も言われぬ疎外感を味わう事がある。次々と飛び交う"@"。場の盛り上がりとは対照的に、どんよりとした目で眺める自分。楽しそうに話している人達を、片隅からじっと眺めている。そういう時、僕は何も言わず、静かにその場から抜け出す。その場から抜け出すことは簡単。Twitを閉じるだけだ。そうして雑音が聞こえなくなったとしても、一度狂った平衡感覚を修正するのは至難の業で、なかなか元には戻らない。皮肉なもので、そういう繋がりの中に身を委ねている時より、こうした書き物をしている時の方が孤独であるにも関わらず、精神的に健常な状態だったりすることの方が多い。

このような体験は一度限りのものじゃなく、それなりの頻度で訪れる。それにもめげず、相も変わらずTwitterを続けているのは、一癖も二癖もある個性的な人達があつまるTwitterという場に、どうしようもなく惹かれてしまっているからなのだろう、電灯に惹かれる虫の如く。恐らくこれからもくだらない独り言を垂れ流していくのだろう。そんなつまらぬ独り言でも、誰かの為になるかもしれない。そんな事を思いながら、明日もTwitterで呟くのです。

ハロー・グッバイ

僕は比較的余計な事を覚えていて、大切なことを忘れている場合が多い。中でも僕の物忘れの酷さはそれこそ一級品と呼ぶに相応しく、例えば外に出るとき、バイクに乗るというのに肝心のキーを持ってくるのを忘れたり、二、三個程頼み事を言付かったら、一つしか片付けておらず、残りのものが頭の中からきれいさっぱり消えてたりという具合に、つい先ほど言われた事すら、すぐに忘れてしまうこともある有様だ。

こういう性分だから昔の出来事もすぐ失念してしまうかというと、やはり大抵の事は忘れてしまっているのだが、全部忘れてしまっているかというとそうでも無い。意外に覚えているものだ。とりわけ、その時強い感情を抱いてた出来事は早々忘れることはない。そうして残った、少ないながらも強烈な過去の記憶を一つ、また一つと僕は積み重ねていく。僕の記憶の中に保持されている過去の出来事を、時折自分という映写機を用いて何度となく上映する。普段は気に留めないけど、時たま何かが足りないな、欠けているな、と感じるものがある。

簡潔に言えばそれは感情なのだろう。自分の追憶の中におけるその時、その一瞬に抱いていた感覚が何という状態であったのかを思い出すのは容易だ。それに名前を与えてやることもできる。あの時僕は怒っていた、憎んでいた、喜んでいた、悲しんでいた、幸福感に酔いしれていた、絶望に打ちひしがれていた、希望を見いだしていた、といった風に。でもそれはカメラ越しに自分の過去を覗き見るようなもので、カメラの向こうにいる昔日の自分は、まるで他人のような存在なのだ。彼が何を感じていたかを察することはできれど、彼の感じ取っていたこと、それを追体験することは、もはや叶わぬ夢。その感情がどのような感覚であったかを思い出すことはできない。その感情に言葉を当てはめる事はできる。でもそれは過ぎし日に感じたものと完全にイコールである事はない。いくら言葉を重ねようと、その激情が再び蘇って乗り移る事はない。感情はその時、その瞬間一回限りのもので、決して長持ちすることはない。どんなに強い想いを抱いていようと、いつかその想いは消えて無くなってしまう。

この一回性が良い方向に働くこともある。人は過去に生きられない。怒りに震えたり、悲しみに打ちひしがれるような事があっても、時間が経てばいつかは風化していく。そうして人は傷ついたり、嫌なことがあろうと、立ち直り、再び歩き始めるのだろう。僕も、そうしてきた。でも時々、その失ってしまった感性を恋しく思うこともある。あの日感じた開放感。見知らぬものに対する、新鮮な驚き。不意に貰った、かけがえの無い言葉、それに対する感謝。暖かな励ましへの涙。どんな素晴らしいことであろうと、絶え間なくやってくる時間の波に押し流されていく。それらをたとえ言葉に綴っても、感覚は二度と戻ってこない。

この時間の波があるからこそ、前を向いて生きられるのかな、とも思ったりする。好むか好まざるかに関わらず、僕はサヨナラをしなくてはならない。どんな事にも別れはいつか必ず訪れるし、それ自体をどうこう言ったところで仕方がない。そうして歩き続けるうちにふと思い出すことがある、過去のその瞬間に「何か」を感じていたことを。僕はそれを忘れない為に書き続けているのかもしれない。当然だが、良いことばかりではない。そのなかに醜いものも含まれている。清濁含めて、僕がその時感じていたものは、僕にとっての宝物。たとえあの感情が生き返る事がなかろうと、あの時、僕が感じた何かは間違いなく存在したんだ。それを確認するために書き綴っている。日々を過ごすたびに得てきた、宝石やがらくたを後生大事に抱え込んでは、僕はこれからも歩き続けていくのだろう。

僕が密かに恐れているのはそうした感性が働くことなく、一日、また一日と過ぎ去っていく事だ。感情という旅人は、不意に僕を訪れ、僕としばらくの時間を過ごした後、またどこかへ行ってしまう。旅人と過ごし、散々な目に遭った日には旅人なんて来なければいいのにと愚痴ることもあるけれど、いざ旅人が全く訪れない日々が訪れると、なんだか自分がとてもちっぽけなものに思えるようになる。無味無臭な出来事の中で自己の感情が削ぎ落とされる毎日というのは、とてもつらいものだ。新たな知識に驚きを覚えたり、たわいもないことで楽しみを感じたり、できればそういう何かを、感じ取る日々であって欲しい。

いろんな出来事があって、いろんな事を感じた。そして感じたことは次々と過ぎ去っていく。明日は嬉しいことがある日かもしれない。もしくは、辛いことがある日かもしれない。でも僕は明日を受け入れようと思うのだ。たとえ、それがどんなものであったとしても、僕はまだ見ぬ何かに、飛び切りの笑顔で迎えたい。そしてこう言うのだ、こんにちはと。